東京で通用すれば日本中で通用する
和歌山県有田郡の田舎から東京に出てきた20代の頃、見るもの聞くものすべてに圧倒された。道行く人はお洒落で言葉使いも丁寧で優しかった。しかし、商売になると過激な競争に打ち勝ってきた猛者どもの相手にはならなかった。
借金を抱えて返済のために東京まで出てきて行商の洋服を仕入れるのだが、アパレルメーカーはどこも僕を信用してくれず仕入れすらできなかった。小さなアパレルメーカーも田舎者が個人で数万円ほどしかなくて仕入れたいなどと言っても相手にされない。
何件か訪問しているうちに売れ残りの洋服があるのに気が付き、これを箱ごと現金払いで売ってくれないかと持ちかけてやっと商品を仕入れることができた。これを田舎に持ち帰り街の洋品店にかなりの安値で卸販売していく。
見切り商品ばかり仕入れていても、いつも在庫があるわけではないので、自分で商品を作り販売することにした。田舎で売れるようになったが、同時に都内でも卸をして売れることを確かめた。都内で売れる商品は全国で売れると確信したのもこの頃だった。
当時は、ファッション雑誌でこれがこの季節に外せないトレンドですと書いていれば、誰もがそのデザインや生地に飛びつく時代。洋服をいちいちデザインする必要はなかった。その季節に売れる商品を持っていれば売れる時代だった。
アパレルメーカーは売れ筋商品がわかってから縫製しても、完成する頃にはその季節が終わっている。半年前に企画して縫製するのでファッション雑誌やアンテナショップで見かけても真似ができない。個人営業の僕にはそれこそが強みだった。
田舎者だからとか都会の人だからなどという劣等感はなく、都内の方からバカにされ相手にされなくても、ただ借金の返済のために奔走していただけだったが、それが結局、都会の人に受け入れられるビジネスへと結びついていった。