戦後の狭小住宅
1945年(昭和20年)8月 敗戦後の日本は焼け野原、そこに500万人以上の方が引き揚げてきた。当然、住居は不足し、焼け野原にバラックという粗末な小屋が立ち並ぶようになる。そこでは、たたみ1畳に2~3人が寝るという狭さ。周辺はゴミだらけでとても不衛生な環境で人は暮らさなければならなかった。
1950年から1952年までの朝鮮特需で日本は好景気になり、文化アパートなる狭小住居が林立するようになる。風呂なし、共同便所、共同台所、共同物干し場など江戸時代の長屋暮らしそのものだった。職を探して都会に流れ込んできた人々を受け入れたが、6帖一間に6人以上が寝る(雑魚寝)ことなど普通の状態だった。
戦後のベビーブームを経て多くの子供たちが大人になる1970年代になると、建て売りなどの住宅着工はピークを迎える。それまで必死になって働いてきた人々に暮らしやすい住居が手に入るようになったが、都市計画がなされておらず狭い道路や行き止まりの道路に住宅が建設されるようになった。
2000年代に入っても都心ではワンルームマンションなど狭小住宅が相変わらず立ち並んでいる。学生や若者はこうした狭い空間に閉じ込められて生活しなければならない状態が半世紀以上続いている。2020年代になり、ITの普及によってテレワークが普及するようになり、やっと職住近接から逃れられるようになりつつある。
都市計画がない日本では、せっかくの清潔な住居でも、窓を開ければ隣が丸見えで、カーテンを閉めざるを得ない。日当たりも悪く一日中照明をつけなければ暮らせない部屋もある。どこでくらしても仕事ができるITの普及がすすめば、見晴らしがよく一日中日の当たる住居で暮らせるようになっていくだろう。