第二次世界大戦で活躍した日本の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)
非常に優れた人は、高評価を与えられるが、同時に妬まれ、憎まれ、嫌がられる。優しき人は、その優しさゆえに愛されるが、同時に妬まれ、憎まれ、嫌がられる。ゼン戦もそんな評価が与えられた戦闘機だった。1937年(昭和12年)、盧溝橋で日中両軍が衝突し日中戦争(支那事変)が始まった。
中国奥地に逃げ込んでしまう中国軍を責めるには、歩兵ではなく空軍による爆撃が効果的だが、戦闘機の航続距離は短く、護衛のない爆撃機は中国軍の戦闘機に撃ち落されてしまう。日本軍は航続距離の長い戦闘機を待ち望んでいた。昭和12年10月6日、三菱重工業 名古屋航空機製作所に要望書は送られた。
空母から着艦できるように全幅12m以内、高度4000mで時速500㎞、高度3000mまでの上昇時間3分30秒以内、航続距離2200㎞、7.7㎜と20㎜機銃をそれぞれ二挺装備、空母での離着陸70m以下、九六式艦上戦闘機以上の空戦性能、1000馬力程度のエンジン、という常識破れの途方もない理想を描いたものだった。
設計主任は日本の航空機を世界のトップレベルに押し上げた九六式艦上戦闘機を設計した堀越二郎。資源のない日本では高馬力のエンジンを設計できても、ガソリンをバカ食いする戦闘機を設計することが許されなかった。非力なエンジンなら軽くするしか打つてはなかった。パイロットの命を犠牲にして世界一の空戦能力を与えるしか道はなかった。
欧米列強は、終戦に至るまで世界トップレベルで活躍できる戦闘機など、日本が独自に作れるはずがないと思い込んでいた。しかし、この戦闘機は、昭和15年9月13日の初陣で敵戦闘機27機を撃ち落し、味方の損害なしという結果を残した。ただ、海軍は終戦に至るまでこの戦闘機を蔑み、巨艦主義を貫く海軍において悲運の戦闘機になってしまう。
ただ、比類なき航続距離と空戦能力があるおかげで、真珠湾奇襲にも成功し、ガダルカナルでも戦え、向かう所、敵なしと云わしめるに充分な活躍をしている。そのことが、この戦闘機の悲劇であり、無茶な作戦計画を成功するかもしれないと思わせてしまう。パイロットを使い捨てにするような無謀な戦略が行われていく。
昭和19年10月下旬に、神風特攻隊の記事が初めて新聞に載り、11月23日 初めて国民に零式艦上戦闘機が新鋭戦闘機として新聞に紹介される。初陣から5年間は何の評価も与えられなかったが、敗戦濃厚となって軍神となって敵艦に体当たりしていった戦闘機がゼロ戦と知って堀越二郎は男泣きしたと書いている。