最高の学生時代を過ごさせていただいた耐久高校
和歌山県立耐久高校は、稲村の灯で有名な濱口悟陵が創立者で1852年 江戸時代幕末の創立。1853年に彼は34歳にして現在のヤマサ醤油の家督を継ぎ、第七代「濱口儀兵衛(ぎへえ)」と名乗りました。1854年には安政の大地震(南海トラフ巨大地震)が起こります。
濱口悟陵は、学問が大好きで西洋への興味もあり、開国論者である彼は、地方再生には地元の子供たちの教育が大切だと考えていました。地震の後の復興のため私財を投じて行った堤防の工事では、家を失った地元民を雇い、仕事を与え住む家も用意しています。
1853年ペリーの艦隊来航 1854年日米和親条約 1856年吉田松陰、松下村塾を設立 1858年安政の大獄 1860年 桜田門外の変と激動の時代でした。そんな時代に身分に関係なく広く世界を知る教育が行える学び舎として耐久舎(耐久高校の前身)がありました。
僕が進学したころの耐久高校は、地元では有名な進学校でしたが、創立者のことはほとんど知りませんでした。勉強熱心でまじめな生徒が多くいる学び舎で彼らと共に過ごした3年間は本当に貴重で素敵な時間でした。3年間、学級委員長もさせていただきました。
中学校の頃の僕は、不真面目でほとんど勉強せずバイトばかりで就職希望でした。家も貧しいので早く働きたかったのです。祖父が、「お金を稼ぐ人は、人を使える人で、人徳と教養を身につけなければ貧乏から抜け出せない。」と進学を勧めてくれました。
中学3年生の冬休みから、必死になって受験勉強を行い、何とか合格した高校では、最初からしっかり勉強しようと思っていました。そこで出会った先生や級友は素敵な人ばかりでした。彼らとの出会いがなければ今の僕はなかったでしょう。
そして高校3年生の時、図書館で耐久高校の歴史を知り、創立者の濱口悟陵の事を知るようになり、驚きと共に感動したことを覚えています。こんなにも素晴らしい人が創立者であることへの感謝と、それに恥じない卒業生であろうという思いがこみ上げてきました。
自身の地位や名誉や金銭のためでなく、ひろく多くの人々のために尽くせる自分であろうと思ったのもこの頃です。他人の幸せを自分の幸せとし、他人の不幸を自分の不幸と思い、自分にできることで貢献することが大切で、そのためにも自分を鍛えなければと思いました。