国を創るには教育が必要
1853年、ペリー来航で日本は翌年、日米和条約を結んでいる。このときの政治の実権は、備後福山藩第7代藩主 阿部正弘。江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。彼は、この国難に際して、武士だけでなく広く意見を求めているが、建白書によるこうしたお声掛けは従来なかったもの。
こうした建白書のほとんどがアメリカを打ち払えという攘夷論が多かったが、開国して交易することで資金を蓄え、欧米の知識を吸収して富国強兵を図るべきだとする勝海舟のような人物もいた。阿部正弘は、のらりくらりと交渉を長引かせる戦術を取ったが、戦争を避け、開国によって国を強くするしかないと判断している。
日米和親条約締結後は、西洋列強の知識の吸収に努めて、講武所、長崎海軍伝習所、洋学所などを創設した。後に講武所(洋式調練・砲術などを教授)は日本陸軍、長崎海軍伝習所(蘭方医学や航海術などの諸科学)は日本海軍、洋学所(外国語など)は東京大学になっていく。
ただし、生徒は、諸役人、旗本・御家人、およびその子弟が対象のためヤル気がない。長崎海軍伝習所で学んだ勝海舟のように、武士階級だけではなくヤル気のある日本人なら誰でも学ぶことができる(身分制度の廃止)学問所を設立するようになっていく。文明が開花してのち明治維新でも、国を富ませるには教育が基本であることに変わりはない。