日本のいちばん長い日
1945年8月15日(昭和20年) 日本は昭和天皇の玉音放送によって終戦を迎えることができた。戦争を始めるのは簡単だが、戦争を終わらせるのは容易ではない。多くの犠牲を出している以上、兵士は最後の一兵に至るまで戦いたいと願う。その最中にあって、終結を叫ぶのは死を覚悟しなければ言えるものではない。
人は過激な意見ほど同調しやすいので、敗戦や撤退などという言葉より、それがどんなにか多くの犠牲を払おうとも、徹底抗戦や玉砕という言葉を好む。政治家も軍部も戦争終結の決断ができずにいる中で、昭和天皇はみずから戦争終結を願うと話された。それは、みずからが戦争責任を負うという決断でもあった。
もしも、昭和天皇みずから最後の国民に至るまで死を覚悟して戦い抜こうと本土決戦、日本総玉砕を叫んでいれば、多くの国民は納得してついていっただろう。しかし、昭和天皇は、天皇という地位は、日本国民の幸せを願う役であることを知って、政治体制がどうあろうとも日本国民を滅亡させることはあってはならないとお考えになられたのではなかろうか。
企業経営でも、拡大はたやすく、事業撤退や事業縮小はなかなかできるものではない。赤字になろうとこの事業部は守ると叫んでいれば、赤字を垂れ流している事業部長はそこで働く従業員にはカッコよく映る。反対に、事業縮小や事業の廃止を迫る企業経営者には恨みを抱く。しかし、企業経営者はどんなに悪く思われても、企業とそこで働く従業員を守る責任がある。
僕はかつて直営20教室を閉校した経験があるが、みずから全直営教室を回って、閉校がどうして必要なのかを説いて回っていた。泣かれるスタッフもいたし、罵倒するスタッフもいた、土下座して謝れと言うスタッフもいれば、葬式の祭壇に僕の写真を入れて教室に飾っているスタッフもいた。何度も恨みあるメールをいただき、そのたびに頭を下げて説得していた。
事業部長に直営教室の展開を任せていたとき、全国に40教室の直営教室を作ったが、ほとんどが赤字で、毎月5000万円もの赤字を出すという事態に驚き、僕は事業部長を降格し、自分で初めて直営教室を巡回した。そこでみたものは筆舌に尽くしがたいスタッフの苦労だった。事業部長は、それが社長の命令だから仕方がないと話していたので、恨みは僕に直接ぶつけられた。
全40の直営教室の事業計画を練り上げて、半分を残し、残り半分は閉校しなければ倒産するという結論に至り、自分で直営教室に行って話していった。このとき、他の幹部社員では甘さが残り、とてもこうした厳しい決断はできえなかっただろう。頑張っているスタッフがいるからとか、残してほしいと言っているとか、頑張ると言っているとか、そうした感情論で赤字を垂れ流していただろう。
あのとき、もしも、そうした感情論に流されていれば、会社は倒産し、全社員に給与は支払えず、僕は自己破産して、加盟してくださっている加盟校様に教材の配布や経営指導もできなかった。つまりは、玉砕であっただろうが、そうなると、むしろ、加盟校様から恨みを買っていたことだろうし、残してほしいと言っていたスタッフも給与が貰えないことで僕を恨んだと思う。