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わかるとできる物語 序章 1

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1998年(平成10年)45歳になった僕は、学習塾や予備校を辞めて一人になり、パソコン教育事業を創める。31歳から15年間、田舎で学習塾と予備校を経営してきた僕は、欧米の教育と日本の受験中心の教育に違いを感じ、このままでは日本は世界から立ち遅れると感じていた。

 

欧米の教育は職業学校の色合いが強く、バスやタクシーの運転手ですら専門職としての学校があった。技術者の養成に力を注ぎ、日本のように一流大学に入れば一流企業に入れるなどという考えはない。世界は、多くの専門職を必要としているが、日本の大学はそうした教育を嫌っている。

 

20世紀も終盤に入り、人口爆発による好景気で、上司から言われたことだけやっていれば売り上げは伸び、会社は拡大し、役職は増え、黙っていても昇給する時代は終わりを告げていた。誰もが仕事のプロになる時代が始まろうとしていたが、日本は忠実に言われたことを言われたとおりにやる人材育成を重視していた。

 

僕は工業大学の建築学科を卒業したが、建築の世界でも、構造力学、材料工学、都市計画、プレハブ住宅設計、超高層ビル設計、耐震設計、インテリアデザイン、など多くの専門家を必要としていたが、専門家を養成する大学教育はなかった。もちろん、企業との合同研究などなかった。

 

有名大学さえ卒業すれば、後の人生何とかなるという時代は、人口爆発があってのこと。人口減少の時代になると、厳しい淘汰が始まり、これまでの価値観は通用しなくなる。しかも、工業立国の日本は技術力で経済成長を遂げてきたが、エリート専門職を育てようとする教育が疎かにされているかぎりジリ貧は避けられない。

 

日本の子供たちはどうして勉強するのかがわからないと先生に問いかけ、先生もその答えに窮する時代。明治維新の頃や敗戦から立ち上がった国家建設の理想もなければ、自分さえよければ、今がよければそれでよいとする風潮が蔓延しており、不景気の波がドッと押し寄せようとしていた。

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