尊王攘夷
幕末、江戸幕府はペリー来航によって「日米和親条約」を天皇の反対意見を無視して行った。江戸幕府二代目将軍 徳川秀忠は、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を定めた。この法は、江戸幕府が、天皇及び公家に対する関係を確立するために定めた制定法で、政治は幕府が行い、天皇はこれに従うというもの。
それまで、政治の実権を巡り武士と朝廷の間で権力争いが絶えないことへの反省から、それぞれの役割を明確にした。ただ、天下の副将軍 水戸光圀は、水戸学で幕府はあくまでも天皇にお仕えする立場であるから、武士の本当の主は天皇であると主張している。これが、殿様や将軍よりも天皇が日本国で一番偉く、自分たちの本当の主だという認識になった。
自分たちが仕える殿様が阿呆なら将軍に訴えて隠居させ、養子を迎え入れて殿様を変えるように、将軍が阿呆なら、天皇に訴えて将軍を隠居させて入れ替えればよいし、将軍がダメなら天皇を中心にまとまった方が政治はやりやすいという考え。これは幕藩体制の崩壊につながる危険思想なので取り締まりの対象ともなっている。
攘夷は無理難題を突き付けてくる外国とは戦争も辞さないという強硬姿勢で、幕末には海外からの強権的な姿勢に反対の立場を取っていた孝明天皇は、アジア諸国が欧米列強によって植民地化されるのを知って、これに武力でもって反対の立場を貫く姿勢を見せていた。水戸学を学んだ武士は、こうして天皇のお考えだという攘夷思想の後ろ盾があった。
欧米の武力には太刀打ちできないと認識していた幕府は、ペリー来航の翌年、日米和親条約を結ぶが、この後ろ盾になっていたのが禁中並公家諸法度で、天皇の了解をとる必要はないと考えていた。開国派の考えは、欧米の優れた技術を学び、これに追いつき欧米に負けない軍備を備えなければ攘夷はできないという考え。
攘夷強硬派の長州藩も薩摩藩も欧米に戦争を仕掛けて敗北してから、いっきに尊王開国に傾く。それは、欧米列強によって植民地化されないために立ち上がるという考えは、攘夷派であれ、開国派であれ同じだからで、軍備を整える必要性を痛感すれば開国して、技術を身につけようと、必死になって勉強するようになる。