両親のしつけは生き様だった
親の言葉は忘れても、親の生き様だけは記憶している。親父は大酒飲みでしかも暴力的で母と僕はいつも親父からぶん殴られていた。しかし、父親は独学で郵政大学に入学して郵政課長にまでなったし、宅地建物取引主任者の資格も取得している。郵便局の配達員で一生を終わらせたくなかったのだろう。
戦時下で、工業高校に進学しても校庭を畑にして耕すばかりの日々だったので、勉学への思いはあったのだろう。収入のほとんどを飲み代に使っていたが、勉強している後ろ姿だけは強烈に残っている。幾つになっても勉強してスキルを高めている姿はカッコよかった。借金まみれの僕に「腹を切って死ね」と言ったことも今は感謝している。
母親は親父の暴力にあらがうことなく耐えていた。親父が家にお金を入れない状態で僕を育てているので生活費に困って親戚を頼ってお金の工面をお願いしている姿を覚えている。食べるものがなくて茶箪笥の奥に手を入れて少しでも食べるものがないか探している姿が印象的だった。いつも、自分の母親の話をしてくれていた。
母親は親父を憎むことなく、安請け合いして困っている親父をいつも助けていた。僕が小学校に通うようになってから、母親は農協で働くようになった。年下の女性社員から苛められていたが、いつも真っ先に出社して掃除やお茶くみをしていた。徐々に農協の仕事ぶりが評価され組合長から頼られるまでになった。
結婚当初はギクシャクして喧嘩ばかりの両親だったが、最後は愛し合っていた。そこには、母親の献身的な支えがあったからだろうと思う。いつも「バカ」「あほ」と言って、母親を呼んでいるのに、その言葉が徐々に愛情がこもった表現に変わっていった。親父は母親に感謝して死んでいった。