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和歌山県有田郡湯浅町 今昔

 

和歌山県有田郡湯浅町は僕の故郷で、今でも母親が実家で一人暮らしをしている。1953年(昭和28年)生まれの僕は、旧国鉄湯浅駅の裏手の町営戦後復興住宅で暮らしていた。駅の裏手なので日中は、汽車の音、駅員の声、深夜は、保線区の人の会話でうるさかった。

 

当時、駅の裏手は畑と田んぼと保線区の石炭倉庫などがあり、ミカン畑の裏山がそばまで迫っていた。復興住宅の一画に駅長の官舎があり立派な洋風の建物だった。湯浅町は、台風のとき海が荒れたが、傍の栖原地区に船を移動させれば風雨を避けることができた良港だった。

 

湯浅町は醤油発祥の地として有名で、手つくり醤油の一大生産地でもあった。幼い頃、港地区に行けば醤油の香りがしていた。また、アジやサバなど近海魚がたくさん獲れた漁場でもあり、地引網を手伝えば市場に出せない魚がもらえた。湯浅湾の干物は美味しく有名。

 

明治時代頃まで、木材は筏で河を下り、山で採れたミカンは平底の帆掛け船で海岸まで運び、醤油は海から帆船で日本中に海路を使って海外までも輸送していた。帆のある和船は重心が高く不安定で、波の揺れ幅が大きかった。ダガーもないので風に流されることも多かった。

 

海上輸送がメインの時代、和歌山市内の次に大きな町が紀北では湯浅町で、たいそう賑わっていた。遊郭や旅館料亭などが林立していた。戦後でも湯浅町は、有田郡一帯の商業地区で、多くの人が買い物などに来ていた。スーパーができるようになりスーパーの発展と共に衰退していく。

 

湯浅町にある耐久高校は、創立者が濱口梧陵(儀兵衛)で、稲村の灯で有名。ただ、僕が生徒の頃は、木造の校舎で雨が降ると教室で傘をさして講義を受けていた。ちなみに、小学校も入学当時は木造校舎でボロボロだった。小学校の講堂は今でも当時のまま残っている。

 

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