戦争中の子供達は軍事教練を受けてきた
僕の父親は太平洋戦争当時は学生で校庭でイモを作っていたらしい。軍事教練もあり、戦陣訓を暗記していた。「生きて虜囚の辱めを受けず」などと手帳をみせて威張っていたが、戦争には行っていない。学徒動員にも呼ばれていない。父親の兄弟も戦争には行っていないし、祖父は町会議長でやはり戦争には行っていない。
そうした父親なので戦陣訓だけが父親の価値観で、僕や母にはとても厳しかった。暴力は日常茶飯事で、軍事教練の教官もげんこつが常識でとても厳しかったらしい。そうした学生時代を過ごしているので、戦争の悲惨さを知らない。敗戦になっても貧しい暮らしを経験したことがないと自慢していた。
ただ、祖父の反対を押し切って妊娠している母と結婚したので勘当され、新婚生活はすさんでいた。何しろ、父は子供をおろせと迫っていたからで、もしもおろしていたら僕はこの世にはいなかった。やむにやまれずの結婚だったので母親にも厳しく、毎日やけ酒を呑んで帰宅する父に反感を覚えた。
戦争は戦場に行った兵士だけでなく、その家族をも巻き込んでしまう。戦争中に学生だった子供たちは、ただ厳しさだけを覚えているし、その子供は反抗して「戦争を知らない子供達」だと訴える。それでも父親の暴力は収まることなく続いていく。まるで、家庭内が戦場のように命令し、逆らえば暴力という制裁が待ち受けている。
そんな家庭で育ったので、僕は暴力が大嫌い。どんなに腹が立つことがあっても父親のようにならないと固く誓っているので我慢する。戦陣訓も大嫌いで、戦争に追いやった人々がのうのうと生き残っているのを知ってからは、戦争大反対になった。戦争は戦後も精神を病み、その後の家庭をも破壊している。