地獄の沙汰も金次第
宗教団体では、教団の活動費を得るために多額の寄付に感謝する。神社にお賽銭を入れるのは、願い事を叶えて欲しいからだが、教団にすれば維持費を得る手段。多額の寄付に感謝するのはどの教団でも同じこと。
ただ、教団が多額の寄付をお願いするようになると、多額の寄付で多大な功徳があるかのような話になり、教団ばかりでなく信者も寄付の額を競うようになる。~さんは、~も寄付したから、私たちはもっと寄付しなければ…
多額の寄付をして癌が治ったとか?怪しい話が飛び交い、あなたは~円ぐらいの寄付をするべき!と言ってくるようになる。功徳を金銭で購入するかのような口癖で、その額を下回ると罰があるかのような話しぶりになる。
貧乏人は借金してでも多額の寄付をしたがるようになり、子供や家族に不便をかけるようになり、貧しい生活はますます貧しくなる。そんな生活がご利益のある生活と言えるのだろうか?家族は考えの違いからバラバラになってしまう。
多額の寄付をすれば功徳があると感謝され、破産すれば罰が当たったのだと罵られる。教団ばかりでなく信者同士でも多額の寄付を当然と考えるようになるのはとても危険なこと。稼いだお金はしっかり貯金してまさかの時に備えている方が良い。
夫が病気になり仕事ができなくなった、売上が減少して運転資金が足りなくなったなど、急に物入りになることがある。そんな時、教団は助けてくれない。信者の生活は自己責任だと突き放される。寄付したお金は戻ってこない。
猛毒サリンを製造して地下鉄でサリンによる殺人を実行した教団も寄付を強要していた。他人を殺人によって救う、自分を寄付によって救えるなどと教える教団は、あまり深入りしない方が良い。