戦争を始めるのも終わらせるのも為政者
戦争は、民衆がどんなに望んでも始められるものではないが、為政者が望めば、民衆の意見に関係なく戦争を始めることができる。それは、戦争と云うものが為政者の権力闘争で、他国の為政者を倒して、自国に取り込むか、自国の言いなりになる為政者を新たに置くか、どちらにせよ、民衆が望んでいることではない。
領土を求めて、資源を求めて、為政者は愛国心を国民にあおり、仮想敵国を憎むようにしむけ、国民が戦争もやむなしと考えるようになるのを待つ。自国のために戦争に参加するのは当たり前、戦争反対などという考えは非国民であり、憎むべき考えだと思わせる。為政者の縄張りである国家は命をかけて守るべきものだと強調する。
民衆は、平和に暮らせることを望むだけで、世界中の誰とでも仲良く仕事をして、ともに助け合って仕事をこなして、お互いの家族を守りたいだけ。今の仕事を放り出して、行ったこともない土地に出向き、銃を持って会ったこともない人に向けて発砲し、相手を殺したいなどという考えはない。そうしろと言っているのは為政者。
為政者は、自分に与えられている特権をいつまでも守りたいと思って必死になる。共産主義諸国であっても、軍事政権であっても、資本主義諸国であっても、新たな特権階級を家族で享受しようとする。誰もが、金持ちになりたい、特権階級になりたいという思いを持っている。人間のそうした感情は、お金持ちや特権階級の人々に、露骨に表れる。
平和を望むと言いながら、民衆を戦争へと駆り立てるのはいつの世も為政者であり、彼らこそ本当に武力を用いない平和交渉が為政者に求められる義務だという認識があるのかと問うてみたい。情報操作によって民衆を戦争やむなしと駆り立てることは、自滅への道しるべだと70年前の戦争で僕たちは知ったはず。