青い目の近江商人
1905年(明治38年)滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として若干24歳のアメリカ人青年ウィリアム・メレル・ヴォーリズは来日する。彼は、この地で生涯を過ごすことになるが、それほどこの町の人々に魅了されてしまう。礼儀正しく、心優しい人々に触れ、近代国家を貧しい民衆までもが支えようとする姿に感動している。彼らと一緒になって近代国家を目指す青い目の日本人となって尽力している。
彼は熱心なプロテスタントで、明治40年に八幡基督教青年会館を建設してバイブル・クラスを開設した。当時の日本人は仏教徒が多く、キリスト教は受け入れがたい。そのため、町民の反感を買い教師を解職させられている。そこで、来日3年後の1908年(明治41年)には、京都で設計事務所を開設し、多くの西洋建築を設計(約1600)している。同志社大学も彼の設計。近江八幡市内には彼の設計による西洋建築物が多く残っている。
また、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもある。「近江ミッション」を設立し、信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事しているし、太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」と称賛され、近江八幡市の名誉市民第1号になっている。