国家のために死ぬのは名誉である
この考えは、どの国に行っても多くの方がそう考えている。多くの先祖が国家建国に命を賭して、この国を創ってくれた。だから、国家を支えるのは国民の務めであり、自分の命をかけて守るべきだという考え。国家とは、国民が基本的人権を保障され、普通の生活を保障するものでなければならない。
国家を運営しているのは政治家や公務員であり、政治家は国家運営のリーダー的役割を担っている。その政治家が、国家のためと国民を戦争の犠牲にすることは、政治家としての責務を放棄することになるのではないだろうか。戦争決定権は政治家にあり、やむを得ない苦渋の決断だというのは国民を守るべき政治家としての仕事を放棄しているに等しい。
政治家は話し合いによって問題解決をするべきで、国民を感情的に誘導するようなことをすべきではない。広く国民に訴えて、国民の理解を得るようなポーズを示して、戦争も辞さずという強硬な姿勢で政治を行うのは、納税者に対する裏切りでしかない。戦争(暴力)を問題解決の手段としないのは、国家内では常識なのだ。
かつて、日本は多くの戦国武将にわかれ、領土を取り合って戦争をしていた。河ひとつ、山ひとつの領土のために死ぬのは当たり前だったが、今、和歌山と大阪の県境の線引きで殺しあうほどの事態にはならない。知事も境界線で府民や県民を煽ったりしない。より大きな国家組織が、これを統率しているから紛争は起こらないで、話し合いによってこれを解決する。
江戸時代は、藩に分かれ、それぞれが軍備を持ち、兵士を養っていた。それぞれに軍隊を持っていると紛争解決の手段として、これに頼り、戦争によって紛争解決を図るようになる。明治になると、廃藩置県によって県には軍隊を所有させないようになった。代わりに、国家が唯一、軍隊を保有して、これを利用する。それによって、日本は海外との戦争を始めてしまう。
世界中の主だった政治家が集まり、戦争による紛争解決の手段をとらないことを宣言し、それぞれが資金を出し合って地球にひとつだけの軍隊を組織して、これに刃向う政治家あれば、その政治家を逮捕し、その政治家のいる国民の基本的人権を守るという宣言を行う時代になってきている。国家に警察があるように、世界に地球軍があり、僕たちは地球に暮す住民だという常識を持つ時代かもしれない。