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他人の評価は他人の物差し

 

23歳で魚の行商を始めたとき、大学を卒業した君がなんでこんなことしているんだと同級生から軽蔑のまなざしで叱られたことがある。借金を返済するために満足に寝ることもできなくて働いていた時、社会奉仕のできないお前は地獄に落ちるぞと怒鳴った大人がいる。

 

そんなとき、僕は彼らに僕の何を知っているんだと心で叫んでいた。設計の仕事を放り出したのは別れた妻の借金返済をするため。寸暇を惜しんで返済のために働いているので、倒れるように僕は寝てしまう。とても社会奉仕などできる状態ではないが、それを理解してくれない。

 

大人や同級生からの軽蔑のまなざしは長く続いていたが、そんなことを気にしている暇はなかった。ただ、返済のためにがむしゃらに働き、行商のエリアは和歌山の田舎から関西へ、関東へと広がり、扱う商品も魚から洋品へと変化していった。自分のお店や会社を持った時、他人の評価は変わっていた。

 

他人はその方の価値観(物差し)で僕を判断する。僕の外面だけで事情は考慮しない。今の状態だけで内情は考慮しない。自分だったらそんな生き方できないと軽蔑する。それが世間の目というもの。イチイチ気にしていたら身がもたない。自分を活かす道は自分にしかわからない。

 

いちいち他人の評価を気にして生きていれば自分を見失う。例えそれが親であってもそのアドバイスを受け入れてばかりだとイイ子ちゃんのストレスから自分を見失う。自分が選んだ生き方が他人からはバカに見えてもいい。人の一生はたかが100年ほど、やりたいことをやらねば寿命が尽きてしまう。

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